金融教育フェスタ
金融教育フェスティバル2011
金融教育セミナー 東京会場
日本銀行 金融研究所 歴史研究課
貨幣博物館グループ企画役
天野 徹 氏
お札って面白い ~明治以降のお札にまつわるエピソード
明治新政府は、当初、通貨制度を整備するまでのゆとりはなく、江戸時代からの貨幣や藩札等をそのまま流通させるとともに、自らも「両」単位の紙幣を発行しました。また、有力商人に設立させた「為替会社」にも紙幣を発行させました。
このため、各種の通貨間の交換が非常に複雑になり、通貨制度の混乱を招いたため、新政府は明治4年に「新貨条例」を制定し、1両=1円として、新しい単位「円」による通貨制度の統一を図りました。当時流通していたさまざまなお金の中でも、藩札の「円」への交換は難問だったようで、財政が苦しかった藩の藩札は、1両=1円ではなく、かなり割り引かれて円に交換される事例もみられました。
一方、新政府は、殖産興業のため、明治5年に「国立銀行条例」を制定し、商業銀行制度を導入します。この条例に基づいて各地で創業した民間銀行である「国立銀行」各行は、同じデザインの紙幣を発行しました。
「円」が誕生した当時、わが国では高度な印刷技術を持ち合わせていなかったため、当初の段階では、政府紙幣である「明治通宝」はドイツで、国立銀行が発行した紙幣はアメリカで製造されました。
その後、明治10年に西南戦争が勃発すると、戦費調達のため政府紙幣等が増発されたため激しいインフレに見舞われます。こうした経験を踏まえて、通貨の発行・管理は一元的に行う方がよいという考えのもと、日本銀行が明治15年に設立されました。明治18年に発行された最初の日本銀行のお札は、銀に裏付けられた兌換銀券であり、表面には大黒様が描かれていました。
19世紀も終わりに近づくと、世界の産銀量の増大等に伴い銀価格が下落したことから、銀に裏付けられた円の価値は下落します。こうした中で、わが国は、明治30年に金0.75g=1円とする金本位制を導入しました。その後、わが国は、昭和6年に金本位制を離脱し、紙幣の発行が金の保有量に制約されない管理通貨制度へと移行していきます。
この間、昭和2年の金融恐慌の際には、裏面の印刷がない紙幣が緊急に発行されました。また、太平洋戦争中は、金属を節約するため、コインに替わる小額の紙幣のほか、印刷様式が簡素な紙幣も発行されました。
終戦直後は、物資の不足等から激しいインフレに見舞われたため、政府は、額面5円以上のお札を強制的に金融機関に預入させ、一定限度内に限って新紙幣による払出しを認めるいわゆる「新円切替え」によりお札の流通量を減らそうとしました。この時、新札の印刷が間に合わなかったので、応急措置として旧札に証紙を貼って新札として流通させました。また、戦後初めて発行された10円札は、表面のデザインが「米国」と読めることなどから、評判はあまりよくありませんでした。
このように、お札には、それぞれが発行された時代背景が色濃く反映されています。本日のお話がきっかけとなり、お札に少しでも興味を持っていただければ幸いです。
日本銀行 金融研究所 貨幣博物館とは
古代から現代に至る日本や海外の実物の貨幣や紙幣、お金に関係した様々な資料の展示などを通じて、日本の貨幣史やお金の機能・役割を楽しく学べる施設です。