金融教育フェスタ
金融教育フェスティバル2010
金融教育セミナー 東京会場
日本銀行 金融研究所 貨幣博物館
貨幣博物館グループ企画役
天野 徹 氏
「おかねの話~日本のお金の歴史」
物々交換から「円」の誕生、日本銀行設立まで
古代、私たちの祖先は物々交換を行っていましたが、交換しようとする者同士の間で、持っている物と欲しい物とのニーズがぴったり合わないと交換が成立せず、非常に不便でした。ですから、とりあえず誰でもが価値を認める何かに取り換えておいて、最終目的物を得ようとします。この交換の仲立ちになるものを「物品貨幣」と言い、日本では矢じりや稲などが使われ、その後金属が用いられるようになり、貨幣へと進化していきます。
日本最初の銭貨は「富本銭」ですが、大和朝廷は、「和同開珎」(708年)を皮切りに、「皇朝銭」と呼ばれる銅貨を発行します。しかし、朝廷は、財政事情の悪化や銅の枯渇などから、銭1枚に使用する銅の量を節約するなどして銭貨の材質を劣化させたため、これが通貨価値の下落を招き、民衆の銭離れに繋がります。そして、10世紀半ばには、朝廷は、銭貨の鋳造を止めてしまいます。
その後、再び米などの物品貨幣が利用されますが、12世紀頃になると、中国から「渡来銭」が流入し、広く流通するようになりました。また、室町時代以降は、経済発展に伴い「渡来銭」だけでは足りなくなり、民間人が「渡来銭」を真似た「私鋳銭」を鋳造・流通させ、こうした状態が江戸時代まで続きます。
戦国時代には、鉄砲や馬など高額取引が増大し、大名は金山・銀山の積極的な開発を通じて高額貨幣である金貨・銀貨を発行します。日本で最初の紙幣「山田羽書」が発行されたのも関ヶ原の戦いの頃で、銀を裏付けに発行されました。
江戸時代に入ると、徳川幕府は、金貨・銀貨・銅貨の3つからなる貨幣制度(「三貨制度」)を導入する一方、各藩では藩札が発行されるという独自の幣制が成立しました。徳川幕府も、財政事情の悪化等に伴い、金銀貨の質を落とす改鋳をしばしば行いました。
明治に入ると、政府は、1871年に金1.5グラムを1円とする「新貨条例」を定め、貨幣制度を統一します。その後、西南戦争が激しいインフレを招きますが、緊縮財政などによる収束過程で、通貨価値安定のため、一国の通貨は一元的に発行管理することが望ましいとの考えから、1882年に日本銀行が設立されました。日本銀行の紙幣は、1897年の「貨幣法」制定前は銀貨、制定後は金貨を裏付けに発行(銀本位制度・金本位制度)されましたが、現在では、金の保有量に紙幣の発行が制約されることのない管理通貨制度が採用されています。
日本銀行 金融研究所 貨幣博物館とは
貨幣博物館は、古代から現代に至る日本や海外の実物の貨幣や紙幣、お金に関係した様々な資料の展示などを通じて、日本の貨幣史やお金の機能・役割を楽しく学べる施設です。