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著名人・有識者が語る ~インタビュー、講演、寄稿~

絆がある だから乗り越えられる

野球解説者 中畑 清

元気いっぱいのキャラクターが多くの人々から慕われ、プロ野球選手やコーチとして輝かしい記録を残してきた中畑清さん。
現在は野球評論家として活躍しながら東日本大震災の被災地を訪れ、被災された方たちに、温かい励ましと支援を贈り続けています。
そんな中畑さんに、明るく前向きな生き方と、人の絆の大切さについてうかがいました。

中畑 清
(なかはた・きよし)

野球解説者。1954年1月6日生まれ。福島県西白河郡矢吹町出身。安積商業高校、駒澤大学卒業後、東京読売巨人軍入団(ドラフト3位) 。大舞台に特に燃えることから“絶好調”“ヤッターマン”が代名詞となる。現役中には、労働組合日本プロ野球選手会初代会長を務める。引退後、東京読売巨人軍打撃コーチに就任。長嶋監督の下、念願のリーグ優勝と日本シリーズ優勝を果たして勇退。2004年、アテネオリンピック全日本野球ヘッドコーチとして参加し、銅メダルを獲得。現在野球解説者、評論家として活躍中。

兄弟の支えの中で野球の練習に打ち込む

現役時代のプレースタイルと同じく明るく元気。それが取材に応じてくれた中畑清さんの印象だ。旧知の友人のように取材スタッフに話しかける気さくな心遣いが場を和やかなものにしてくれる。選手として、そしてコーチとして周りに気を配ってきた中畑さんの優しい人柄がすぐに伝わってきた。

長嶋選手のような野球選手になりたい。子どものころからそれを夢みていた中畑さん。小中学校時代はソフトボールや軟式野球のチームに入りながら家業である牧場経営をずっと手伝ってきた。

「朝と夕方に乳搾りをしていました。そのため1時間目の授業はいつも遅刻です。放課後の野球の練習も途中で抜けなければなりませんでした。朝の遅刻は当時の理解ある先生が事情を察して大目に見てくれていました。ただ大好きな野球の練習に打ち込めなかったのは辛かったですね」と当時を振り返る。

やがてそんな中畑さんを兄弟が支え始める。高校入学後、中畑さんの乳搾りを兄弟が代わってくれたおかげで、野球に専念できるようになった。そうした兄弟のバックアップはけっして中畑さんに特別なプレッシャーをかけるものではなかった。このときに肌で知った気遣いと家族の絆の素晴らしさ。それが後のチームでの後輩へのアドバイスや、コーチ時代の指導にも発揮されていると語る。

こうした兄弟の支えもあって、高校時代に中畑さんはいよいよ頭角を現し、高校球児としての活躍は新聞などでも報道されていく。そして、大学に進んだ中畑さんは、神宮球場にその勇姿を見せる。

チームのために明るく、前向きな自分に

大学野球部時代、中畑さんは東都リーグでの首位打者争いや秋季リーグ最高殊勲選手、4度のベストナインや2度の全日本入りなどを果たし、より一層注目されるようになる。またこの4年間は、自分とチームとの関わりを深く考えた時期でもあった。

「野球はエラーなど一つの失敗がチームの勝敗に致命的な影響を及ぼしかねないスポーツです。しかしミスの直接の影響よりも怖いことは、そのミスを引きずること。失敗をなかったことにするわけにはいきません。ただ失敗したことを気にするあまり、チームの士気を下げ戦意を落としてしまえば、さらにマイナスになってしまいます。だから私は、 “失敗を必要以上に深刻に捉えず、失敗を恐れない前向きなプレーをしよう” 、そんな考え方をチームみんなに伝えていくことが大切だと思うようになりました」

中畑さんは、どんなアクシデントが起こっても、チームのために明るく、元気に前向きに振る舞っていく。心の中で落ち込んでいてもその素振りをけっして人に見せることはなかった。これが後に中畑さんの代名詞となった“絶好調”につながっていく。そこには自分が不調のときでもそれをチームメイトに感じさせない中畑さんらしい気遣いがあった。

困難を乗り越えたプラス思考と仲間の存在

大学卒業と同時に中畑さんは憧れの長嶋監督が率いる読売ジャイアンツに入団した。しかしプロ野球での選手生活はけっして順調とはいえなかった。

やっと活躍の機会を得、新人王と期待された矢先にデッドボールで指を骨折。大きなチャンスを失った。中畑さんは、このほかにも欠場を余儀なくされる大きなケガを試合中に二度経験している。そんなときでも中畑さんは前向きな発想で乗り越えていった。

「選手として活躍の場が持てないことよりも野球そのものができないことがこんなに悔しいものかということを、ケガで知りました。けれどそのたびにチームのことを考えるようにしたのです。自分の欠場によって後輩たちが活躍できる。そのことによってチームがさらに戦力を強めることができる。だから自分のケガには意味がある。そう考え直すことで悔しさや辛さが癒えていったのを覚えています」と中畑さんはいう。

ずっとヒットが出ないときもめげることはなかった。中畑さん流のスランプ克服法は、独特だ。自分は長嶋選手や王選手のように一流ではない。一流選手なら何打席もヒットが続かなければスランプだろう。しかし自分のような選手にとっては、「ヒットが出ないことは普通のこと」、凡退が続いても「それはスランプではない」、そんな暗示を自分にかけていく。こうしてヒットが出ないときでも「絶好調」と言い続けた中畑さんは生涯打率2割9分、ゴールデングラブ賞7回受賞の記録を残すなど、華々しく活躍していった。

選手生活の中では、労働組合日本プロ野球選手会の初代会長にも就任。選手会としての活動には批判や攻撃もあった。しかし、さまざまな困難の中で選手の最低年俸の引き上げやFA制度導入の礎を築く。「お前がやるなら...」と応援を惜しまなかった各チームのスター選手たちのことを中畑さんは今でも忘れられない。

心を分かち合い、一つになれたアテネ五輪

中畑さんは現役引退後、 巨人軍コーチの道を進み、その後2004年にはアテネオリンピックで野球の日本代表チームのヘッドコーチに就任する。このときは病床に伏す長嶋監督の代わりにチームを指揮するという重責を担っていた。ここで中畑さんは今までに経験したことのないプレッシャーに苛(さいな)まれる。

「そのときに支えになったのが宮本慎也選手の『一緒に苦しみを分かち合いましょう』の一言でした。その瞬間にパッと気持ちが晴れていったのです。年齢や立場を超えて通じ合える仲間との絆。それが分かったから頑張れたのだと思います」と中畑さん。

仲間が一つになったところにチームワークがある。このオリンピックでヘッドコーチとして選手に求めたものは、 “オレがオレが”ではなく、どんな場面でもチームのために自己を犠牲にできるプレーと考え方だった。中畑さんは自分にできることを考え、現地で食事内容など野球とは離れたことでも、きめ細かく選手の生活にまで神経を使った。そういった中畑さんの心遣いは選手たちに通じた。結果、素晴らしいチームワークを発揮し、銅メダル獲得という成果を残す。そのときに手にしたメダルは金メダル以上に輝いて見えた。

一人ひとりの心が分かる熱い野球評論家に

現在、中畑さんは野球評論家として活躍をしているが、そこでは現場の選手一人ひとりの気持ちを伝えるコメントにこだわっている。そしてこの仕事には中畑さんが今日まで大事にしてきた「十人十色」という人生哲学が生きている。

中畑さんの「十人十色」の視点は、小学生時代に乳搾りでの遅刻も大らかに認めてくれた先生や、野球に打ち込む自分を支えてくれた兄弟とのふれあいで育まれた。

例えばチームスポーツのための集団を機能させるために、チームを一色に染め上げればいいかというとそれは違う。一人ひとりとコミュニケーションを十分にとることが大切で、個々の色をしっかり見極め、各人の個性に合った指導やアドバイスが必要なのだと語る。同じような状況でも一人の選手には叱り、別の選手には温かい言葉で安心を与える。それぞれの色を磨き、個性を発揮させることで、つまり「十人十色」によって一つにまとまることで、素晴らしい結果が出せる。そんなことをアテネオリンピックでも体験してきた。

自分を「十人十色」の一人としてその色を見守ってくれる先人がいたから、今日まで育つことができた。それを学び実践する野球評論家としての中畑さんが伝えるコメントは熱い。

お金を稼ぐ、そこには何かをしてあげることができた幸せがある

中畑さんのお金に対する考え方の基本には、人との絆、人の支えがある。その中で中畑さんはお金に対する独自の考え方を深めてきた。

お金に対する意識を明確に持ち始めたのは、少年時代に牧場の乳搾りを日課にしていたころだった。

「乳搾りは大変でしたが、そこには家族に喜んでもらえるという達成感がありました。さらに嬉しいことに乳搾りをする私に父親はいつもお小遣いをくれたのです」と語る中畑さん。

乳搾りのお駄賃としてそのときに手にしたお小遣いは、家の仕事を手伝うという充実感と一緒に中畑さんに記憶されていった。お金は中畑さんにとっては単なる報酬ではなかった。人に尽くすことの手応えや実感がお金の中にある。だからこそ、 「お金をかせぐ」ことは“人に何かをしてあげることができた幸せ”に繋がっていると中畑さんは考えている。

恩返しの思いで復興支援活動に取り組む

今回の東日本大震災では、福島で牧場を営む中畑さんの実家も打撃を受けた。そうした中で、中畑さんは、実家の心配をするだけでなく、義援金の募金活動や避難所訪問など復興支援活動に取り組んでいる。

悲しみや不安であふれる避難所生活。その中で人々は、不十分な生活の中でも希望を見出し、懸命にがんばっていた。その姿に中畑さんは大きく心を打たれる。特に子どもたちの元気な笑顔には逆に元気をもらったという。

同じプロ野球の仲間や友人のタレントたちと連れ立っての激励旅行は続く。被災地を訪れるたびに嬉しかったのは少しでも笑顔を取り戻してもらえたことだった。

「訪問した被災地のうちのひとつは、昨年8月に家族旅行で訪れた場所でした。自分たちを癒してくれた海や美しい町が、まったく変わり果てていました。その町の避難所となっている体育館を訪問しているときのことです。そこで出会った人から私は、がれきの中から見つかった一枚の写真を差し出されました。それは10年以上も前にこの体育館で野球教室を行った際に皆で撮った記念写真でした。あのときの出会いを思い出としてずっと大切にしてくれている人たちがいた。そんなことを思うと、こうしてまた私がこの地を訪れているということに、目に見えない力、絆があると考えても不思議はありません。私がこうした支援活動を続けることはとても自然なことなのです」

今も中畑さんの支援活動は続く。そこには人の絆そのものへの恩返しの思いがある。自分を支え、育ててくれたのも人と人との絆だった。目に見えない人のつながりを感じ、それを大切にするために行動する。中畑さんの生き方は復興支援活動でも大きく活かされている。

本インタビューは、金融広報中央委員会発行の広報誌「くらし塾 きんゆう塾」Vol.18 2011年秋号から転載しています。


くらしに身近な金融知識をご紹介する「くらし塾 きんゆう塾」

著名人・有識者へのインタビューのほかにもお役立ち連載がいっぱいです。

著名人・有識者が語る

  • 脳科学者 中野信子さん
  • 作家 上橋菜穂子
  • 落語家 林家たい平さん
  • 劇作家・演出家・女優 渡辺 えりさん
  • 青山学院大学陸上競技部監督 原 晋さん
  • 東京女子医科大学・先端生命医科学研究所教授 清水 達也さん
  • 元スピードスケート選手/長野五輪銅メダリスト 岡崎 朋美さん
  • 工学博士 石黒 浩さん
  • 日本体育大学教授 山本 博さん
  • 編集者・評論家 山田 五郎さん
  • 作家 荒俣宏さん
  • 医学博士 日野原重明さん
  • 山形弁研究家、タレント ダニエル・カールさん
  • 公認会計士 山田真哉さん
  • タレント パトリック・ハーランさん
  • 精神科医、立教大学教授 香山 リカさん
  • 野球解説者 中畑 清さん
  • 順天堂大学准教授 鈴木大地さん
  • 昭和女子大学理事長・学長 坂東眞理子さん
  • プロスキーヤー、クラーク記念国際高等学校校長 三浦雄一郎さん
  • 明治大学文学部教授 齋藤孝さん
  • マラソンランナー 谷川真理さん
  • 数学者 秋山仁さん
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