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江戸時代に学ぶ お金と暮らし

第4回  相場師だけじゃない 庶民が気軽に投資をしていた堂島米市場

初心者・一般向け

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  • デリバティブ取引

江戸時代の人々は、領主階級から庶民に至るまで、投資、運用に熱心であったことをこれまでに述べてきました。

最終回となる今回は、江戸時代の庶民、とくに大坂の人々が読んでいた投資ガイドブックについて紹介したいと思います。

「秘書」が流布する?

安政2(1855)年に大坂西町奉行に着任した久須美祐雋(すけとし)は、在職中に大坂で見聞した事柄を随筆『浪華の風』としてまとめたことで知られますが、その中で、堂島米市場のことを「他国には無くて浪花のみにありて、金銀融通となり繁昌せるものは、堂島の米相場なり」と紹介しています(『日本随筆大成第3期第5巻』、333頁)。

しかし、久須美は、これ以上詳しくは紹介していません。

なぜなら、「およそ米相場のことを書るものは、秘書と称して世間にも流布せしものあれば、その詳らかなることはその書に譲りて、ここに贅せず」(同上書、334頁)、つまり「秘書」(「秘伝の書」の意)と称する本が世間に流通していて、それを読めば分かることだからあらためて書く必要はない、と考えたからでした。

「秘書」が流布する、というのも変な話ですが、とにかく、堂島米市場に関する「秘書」が、当時の大坂では盛んに流通していたことをうかがわせます。

久須美が具体的にどの本を指しているのか分かりませんが、おそらくこのあたりだろうな、という察しはつきます。

代表的なものを挙げれば『米穀売買出世車(べいこくばいばいしゅっせぐるま)』(1748年成立)、『八木(はちぼく)虎之巻』(1751年成立)、『商家秘録』(1770年成立)、『八木秘伝書』(1847年成立)などがそれに当たるでしょう(注1)

(注1)
八木というのは、「米」の字(正確には米の異体字)を分解すれば、「八」・「木」の2字となることに由来する米の異称。

出世、虎の巻、秘録、秘伝など、いかにもお金儲けの秘訣が詰まっていそうな言葉が並んでいます。

これらの内容は多岐にわたりますが、デリバティブ取引を行っている人々、あるいはこれからデリバティブ取引を始めようとする人々に対して、取引に際しての心構え、取引戦術、相場の専門用語、価格の変動法則、価格の予測方法などを示すものが多いです。

大坂の堂島米市場では、諸大名が発行した米の交換チケットである米切手を売買する正米商い(スポット取引)と、米切手価格を日経平均株価指数のように指数化して取引する帳合米商い(デリバティブ取引)とが行われていました(これらについて詳しくは拙著『大坂堂島米市場』講談社、2018年を参照してください)。

このうち、正米商いがプロフェッショナル向けの市場で、参加するには資金力を必要としたのに対し、帳合米商いと呼ばれたデリバティブ取引はわずかな元手だけで参加できました。

当時、刊行された解説書がデリバティブ取引を念頭に置いた書き方をしているのも当然で、多くの人々はデリバティブ取引から参入するほかなかったのです。

「一(ひと)はね千里」の堂島米市場

ではいよいよ「秘書」の中身をのぞいていきましょう。

まずは草分けとなった『米穀売買出世車』(1748年成立、1758年に図版を追加して『米穀売買出世車図式』として再版)から見ていきます(注2)

(注2)
ここでは、神戸大学経済経営研究所図書館所蔵本『米穀売買出世車図式』による。

著者の属性は不詳で、大坂に住んでいた人物ということだけが分かっています。

40歳のころから堂島米市場での取引を始め、大富豪となった老人(80歳近く)から聞いた話をまとめた、という体裁をとっています。

米穀売買出世車図式

米穀売買出世車図式

(出所)
神戸大学経済経営研究所図書館蔵

『米穀売買出世車』は、堂島米市場での商いを以下のように描写しています。

この浜のあきないは、一はね千里なれば、きのうまでは露命(ろめい)をつなぎかねたる人も、一朝に利を得ては、万貫目(まんがんめ)もちとよばるることなり。
げにたのしみある商いなるべし。

堂島での米取引は「一はね千里」であって、昨日までは暮らすのが精一杯だったような人が、一日にして億万長者と呼ばれることもある。実に楽しみのあるビジネスである。

まさに庶民に夢を与えるものとして、堂島米市場のデリバティブ取引が描かれていることが分かります。

その一方で、市場と向き合う姿勢についても繰り返し指摘しています。

利欲を第一にすればとて、かりにも悪事にかかりて利を得んとはおもうべからず

利益を得たいからといって、悪事によって利益を得ようなどとは決して考えてはいけない、とあります。

現代に暮らす我々は、「取引倫理のことだな」と考えてしまいますが、当時の人々は、損得勘定は抜きにして守るべき道理(=倫理)として考えていたのではなく、人の道に外れない取引――言い換えれば正直な商い――を心がけることが、それすなわちビジネスで成功する道だと考えていたのです(「正直・正路にて、ねてもさめても売買のことに心をつけたらば、何商いにても福徳あることうたがうべからず」)。

この点は他の解説書にもおおむね当てはまります。

今にも当てはまる?―江戸時代の相場訓―

続いて、『米穀売買出世車』と並んで著名な解説書『八木虎之巻』(1751年成立)も見てみましょう。

八木虎之巻

八木虎之巻

(出所)
神戸大学社会科学系図書館蔵

やはり著者の属性は不詳ですが、この本も多くの版を重ねており、現代にも残る相場格言が記されていることで有名です。

いくつか続けて紹介します(注3)

(注3)
ここでは、神戸大学社会科学系図書館所蔵本による。
けなり売り、けなり買い、腹立ち売り、腹立ち買い、天井を売らず、底を買わず、右六ヶ条、別して第一の事に候

他人をうらやんで売ること、他人をうらやんで買うこと、腹を立てて売ること、腹を立てて買うこと、天井(価格のピーク)において売ることに固執すること、底(価格のボトム)で買うことに固執すること、この6つを避けることが特別重要なことである。

もうはまだなり、まだはもうなり

この相場訓も有名ですので、聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。

『八木虎之巻』は以下のように説明しています。

この言葉は、「もう底だから、これから上昇するだろう」と考えるときは、「まだ価格は下がるのではないか」と考えてみること。

同じように、「まだ価格は底ではないから、これからまだ下がっていくだろう」と考えるときには、「もう底なのではないか」と考えるべきことを言っている。

まだまだ買うのは早い、と言っている内に、価格は上がっていくものである。

したがって、たとえば今が底値と考え千俵を買うつもりであったところを、まだ価格は下がるかもしれないと考え、二百から四百俵を買うように心がけることである。

逆もまたしかりである。

商いしかける時、まず損銀をつもるべし

現代語訳は不要ですね。

許容できる損失額をあらかじめ見積もってから投資を行うことは、現代においても非常に重要なことではないでしょうか。

江戸時代の大坂では、このような「秘書」が数多く出版されました。

庶民はそれを読みながら明日の富豪を夢見ていたのではないでしょうか。

紙幅の都合で十分に紹介できませんでしたが、現在にも伝わる投資戦術(デリバティブ取引を使ったリスク回避戦略など)も紹介されています。

研究の世界ではあまり注目されることのないこれらの解説書ですが、庶民の投資に対する情熱や知恵が詰まっているような気がして、筆者は魅力を感じています。

  • 江戸時代の大坂は「大坂」、近代以降は「大阪」と表記しています。

これまで4回にわたって江戸時代の人々のお金に対する向き合い方を紹介してきました。

連載開始時に「現代の私たちのほうが江戸時代の人々よりも進んでいる」という色眼鏡を外してほしいと述べました。

皆さんの江戸時代に対するイメージが少しでも変わったとすれば、そして資産運用に対して親しみを持っていただけたとしたら、この拙い連載にも意義があったことになります。

最後までお読みいただきありがとうございました。


本コンテンツは、金融広報中央委員会発行の広報誌「くらし塾 きんゆう塾」Vol.60 2022年春号(2022年(令和4年)4月発刊)から転載しています。
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